基源:オミナエシ科(Valerianaceae)の Nardostachys grandiflora DC. の根茎を乾燥したもの。

 「甘松香」は現在日本で使用されることはほとんどありませんが、世界的には古くから薬用にされてきた生薬です。原植物は、ネパール、チベット、中国南部にかけてのヒマラヤの高山帯に分布するオミナエシ科の植物です。高さ20 cmほどの小型の多年草で、根茎にはオミナエシ科特有の香りがあり、ヒマラヤ山域では太古の昔から頭痛や腹痛の治療薬とされていたようです。その優れた薬効のために古くからヨーロッパへも輸出され、ローマ時代には軟膏として利用されていたり、エジプトでも古代の副葬品に含まれていたようです。ヒマラヤ地域ではサンスクリット語で「Jatamansi」と称され、今でもヒマラヤ山域では「ジャタマンシー」の名で通用し、最も有名な薬用植物の一つです。

 独特の香りがある生薬は他と間違え様が無く、異物同名品が少ないようですが、植物分類学的には少なからず混乱が見られます。分布域はそれほど広くはありませんが、高山帯に生育するため比較が困難であったようで、原植物の学名については中国産にはN. chinensis Batalin、インドヒマラヤ地域産には N. jatamansi DC. などと命名され、現在はN. grandiflora DC. で統一されています。ちなみにインドヒマラヤ地域の「Jatamansi」には香りの同等性から「本物」と「代用」の2種類が存在しており、代用品の原植物には同じくオミナエシ科の Valeriana jatamansi DC. が充てられています。異物同名品が少ないとは言え、生薬名も学名も類似しており混乱しやすい状況にあります。

 正品原植物のN. grandiflora の葉は線状の倒披針形で鋸歯はなく、葉脈は不鮮明です。日本に自生するオミナエシ科カノコソウなどは、葉は深い切れ込みがありますから全く異なっています。ただ花部では雄しべが花冠より長い、という基本的な構造は類似しています。開花期は8月、小型で淡いピンク色の花を咲かせます。根茎および根は円錐形で、全体的に湾曲して上部は太く下部は細くなっています。根茎部の茎の付け根には地上茎の残留基部が繊維状になって多数ついているのが特徴的で、香りのみならず外見でも他の生薬とは明らかに区別できます。主根が太く、香りが濃いものが良品とされてきました。春および秋に地下部を掘り取り、泥砂や不純物を除いて乾燥します。

 中国では、薬用としての甘松香は宋代の『開宝本草』から正品として収載されました。その名称について『本草綱目』では「川西の松州に産するもので、その味が甘いからかく名けたのだ」とあります。さらに「甘松は香気が芳しく、よく脾の鬱を開くものだ。少量を脾胃の薬中に加えると甚だ脾気を醒す」と記載があります。甘松香は脾胃二経に入る薬で、その芳香はよく脾鬱を開き、温性は通じて痛みを止める作用があります。その薬効は、鎮痛、鎮静、健胃薬として、心腹の満痛、胃痛、嘔吐、食欲不振、慢性下痢などに使用されます。方剤としては『和剤局方』に収載されている「大七香丸」などがあります。また煎液を湯剤として温湿布することで脚気の浮腫に効果があるとされます。主に四川省、青海省、甘粛省などで生産され、現在では薬用としてよりも薫香料として多く使用されています。

 甘松香の類似生薬としてヨーロッパのワレリアナ根(Valeriana officinalis)があります。甘松香と同様の香気があり、薬効的にも類似した鎮静作用があり、胃痛、腹部膨満に加え頭痛やヒステリーにも用いられています。

 先に紹介しました『本草綱目』では続けて、杜寶の拾遺録に「寿禅師は医術に妙を得た人で、五香飲なるものを作り、更に別の薬を加えて渇きを止め、兼ねて補益の効を挙げることに最も妙であった。五香飲とは一は沈香飲、二は丁香飲、三は檀香飲、四は澤蘭飲、五は甘松飲である」と記載があることを紹介しています。香りを発する生薬は、特にその資源が少ないほど珍重されてきました。甘松香の原植物も資源が決して多くはない高山植物ですから上手に利用しなければなりません。

 

(神農子 記)