伏龍肝が日本に渡来した時期は不明ですが,10世紀に編纂された本草書『本草和名』に記載されており,平安後期にはすでに伝来していたことがうかがえます.益富寿之助は黄土について,「リヒトホーフェンの華北の黄土で,日本にはこれに相当する土は無いが,関東ロームが之に近い.たんに黄色や褐色の粘土を黄土と思つてはいけない.」と記しています.シルクロードの名付け親として知られるドイツの地理学者リヒトホーフェンは,中国の地下資源を調査したことでも知られており,益富博士のいう「黄土」とは,リヒトホーフェンも調査した華北の黄土地帯に産する粘土のことを指すようです.華北はかつて良く用いられた呼称で,淮河以北地域(河北省,山西省,内モンゴル自治区,北京市,天津市など)を指します.中国黄土地帯の黄土はミネラル分を豊富に含むことが知られており,この点において他の粘土と異なります.
伏龍は臥龍と同義であり,天にも昇る能力を持ちながら寝ている龍,すなわち優れた能力がありながら世に知られていない人物を意味します.蜀の諸葛孔明はその才能ゆえ幼少期に伏龍と呼ばれていたそうです.中国には古くからかまど神の信仰があり,伏龍肝という名前はかまどの神を伏龍になぞらえて命名されたと陶弘景は記しています.また,伏龍肝の別名に黄土,釜月下土,灶心黄土などがあります.黄土について『古方薬品考』には,かまどの焼け土以外にも山土で黄色のものを黄土と称すが,これらは同じではない,とあります.現代では,黄土地帯の黄土は有害物質を含むので赤熱してから用いるべきと言われています.
伏龍肝の供給は限定されているため一部代替品が使用されてきました.吉益東洞・村井椿寿は土器を焼いたものを用いて治療を行い,効を奏しました.その他,長年使用した七輪やカワラ・レンガなどの破片を代用品として用いる例もあるようです.しかしながら,紅磚(赤レンガ)は焼く際に産生した有害物質を含むため代用には不向きであるとの意見があります.
伏龍肝に関する研究はほとんどなされていません.中国瀋陽市の田舎の家のかまどの中央部の焼け土について成分組成を調べた結果,SiO2 41.4%,Fe2O3 11.6%,Al2O3 4.4%,CaO 8.0%,MgO 10.7%,K2O・Na2O 17.2%,SO3 6.4%,Cl- 1.6%,CO32- 1.1% であり,弱アルカリ性であったとの報告があります.ところが,七輪の破片の成分組成は,SiO2 3.7%,Fe2O3 微量,Al2O3 微量,CaO 9.8%,MgO 2.1%,K2O 13.9%,Na2O 21.5%,SO3 41.5%,Cl- 8.1% との報告があり,無機成分に着目すると明らかに前者と異なります.一方,古いレンガの成分組成は,多少のばらつきがあるもののSiO2やFe2O3を多く含むなど瀋陽のかまどと同様の傾向を示しました.このことから考えると,伏龍肝の代替品としては,七輪の破片よりはレンガの方が良いように思えます.
伏龍肝の性味は辛・微温で脾胃に入るとされています.虚寒の血便・吐血など各種出血に,あるいは嘔吐・反胃に用いられます.温中の効能が知られていますが,黄土が長期間高温にさらされてきたことと関連があるのでしょうか.代表的な処方としては,つわり・悪心などに用いられる伏龍肝湯があります.また,つわりに繁用される処方に小半夏加茯苓湯がありますが,伏龍肝を加えるか伏龍肝を溶いた上澄み液で煎じるとより強い効果が期待できるとされます.さらには,伏龍肝を煎じた上澄み液で小半夏加茯苓湯を煎じる伏龍肝煎という処方もあり,同様につわりに対して用いられます.各種出血に用いられる黄土湯では「黄土」が主薬とされています.この「黄土」について,現在では灶心黄土,すなわち伏龍肝が用いられていますが,難波恒雄は赤熱していない黄土を用いるべきだと指摘しています.この他,中国では外用で血管収縮・止血などに用いられることがあるそうです.
マイナーな生薬ゆえ,中国の急激な経済発展によって,伏龍肝はやがて過去のものになってしまうのかも知れません.