中国雲南省東南部から広西壮族自治区西南部周辺に「三七人参」という人参類生薬が産出します。「田七人参(デンシチニンジン)」や単に「三七」、「田七」などとも称されるもので、原植物は人参と同じウコギ科 Panax 属であり、人参同様に優れた効果が認められています。一方、初収載された本草書は比較的新しい明代の『本草綱目(1596)』で、限られた地域でのみ使用されていたようです。
『本草綱目』には「三七」という名称で収載されています。項目名が「三七人参」ではないことや別名にも「人参」が記載されていなことから、当時はまだ原植物が未解明で人参類生薬という認識がなかったことが窺い知れます。「三七」の附図も人参とは明らかに異なり、キク科のサンシチソウ Gynura japonica と考えられる植物が採用されています。著者の李時珍は「彼の地の者は、葉が左に三枚、右に四枚あるから三七と名付けるのだというが、恐らくはそうではあるまい」と述べています。Panax 属植物の葉は掌状複葉であり、小葉の付き方は左右対称です。もし李時珍が「三七」の本当の原植物を見ていれば「恐らくは」ではなく、誤りであることが断定できたはずです。一方で、「味は微し甘く苦く、頗る人参の味に似ている」と味から人参との関連を指摘し、さらに「近頃中国に伝わった一種の草に、春苗が生えて夏三四尺の高さになり、葉は菊艾に似て勁く厚く、岐尖があり、茎には赤い稜角があり、夏、秋に黄色の花を開いて(中略)。これを三七だというのだが、この草は根の太さが牛蒡の根ほどあって南方から来るのとは類似していない」と記し、真の原植物とは異なると考えていたようです。なお、附図は李時珍の弟子が付したものとされます。
Panax notoginseng の地上部の形態は人参の原植物 P. ginseng に酷似しています。葉の形状がやや異なり、小葉の枚数は P. ginseng が3〜5枚、一般に5枚であるのに対し、P. notoginseng は3〜7枚で一般に7枚です。『本草綱目』の人参の項には『人参讃』を引用して「三椏五葉、陽に背き陰に向ふ」と、三つの葉柄にそれぞれ小葉が五枚ずつ付いた状態の人参の原植物の形態が引用されています。このことから「三七」とは「三椏七葉」に由来すると考えることもできます。実際、「三七」の名称の根拠については確たる説がなく、別名の「山漆」に由来するという説、播種してから育つまでに三年から七年もかかるからという説などもあるようです。なお「田七」という別名は、かつてその集積地が広西壮族自治区の田陽であったことによるものです。
「三七人参」の薬効について『本草綱目』では「この薬は近頃始めて世に現れたもので、南方番地の者は戦場で金瘡の要薬として用い、奇効があるという」とし、具体的に「血を止め、血を散じ。痛みを鎮める。金属の刃物、箭(矢)の傷、跌撲、杖瘡の出血の止まぬには、噛み爛(ただら)して塗り、或いは末にしてふればその血は直ちに止まる。」と、外用して止血、消炎、鎮痛に優れた効果を発揮していたことがわかります。その後、『本草綱目捨遺(1765)』には「昭参」と称する生薬が収載され「即ち人参三七であって昭通府(雲南省昭通県)に参する」と記載されています。この頃には「三七人参」は人参類生薬ということが認識されていたようです。ここでは『宦遊筆記』を引用して、「人参は補気第一、三七は補血第一で、味が同じくして功もやはり等しいところから、世間では並称して人参三七という。薬品中で最も珍貴なものとなっている」と記載があり、人参同様に高貴薬という位置づけだったことがわかります。ちなみに『本草綱目捨遺』は広東人参をも「西洋参」として初収載した本草書です。
現在、中国では「三七」として雲南省の文山などで生産され、全て栽培品です。主根は類円錐形か円柱形で、表面は灰褐色から灰黄色です。大きくて重く、質が堅く、表面が滑らかな「銅皮鉄骨」が良いとされます。等級は8頭や200頭など 500グラムあたりの個数で評価されます。産地によっては木炭で着色し、ロウで光沢をつけて黒光りしているものもあります。