生薬名の「Belladonna(ベラドンナ)」はイタリア語で「美しい貴婦人」という意味です。ヨーロッパの中世ルネサンス期には貴婦人達が目を美しく見せるために、この植物の葉の汁を点眼して瞳孔を開いたそうです。「美しい貴婦人」とはこれが由来になっています。「Belladonna」は学名の種小名にもそのまま採用されています。属名の「Atropa(アトロパ)」はギリシャ神話に登場するアトロポス、運命の三女神の1人、運命の糸を断ち切る役割をもつ女神に由来します。
原植物のベラドンナはヒマラヤ山系からコーカサス、イラン、西アジア、ヨーロッパ南西部にかけてのブナ帯に分布するナス科の多年生草本です。植物体は高さ 50〜200 cm、やや紫色を帯び、上部には毛が密生しています。葉は長さ 20 cm、卵状楕円形で互生、上部では節間が短くなるため対生や輪生状になります。初夏に鐘状で紫褐色の花を葉腋に下向きに開きます。花はナス科に特徴的な合弁で縁は5裂し、やや外側に反り返ります。果実は球形の液果で熟すと紫黒色になります。ベラドンナはヨーロッパでは古くから知られた薬物の一つであり、葉を「ベラドンナ葉(Belladonna leaf)」および根を「ベラドンナ根(Belladonna root)」と称して使用されてきました。薬効は鎮痛、鎮痙、止汗、散瞳、催眠薬などです。現在は主にベラドンナエキス、アトロピンの抽出原料として使用され、その資源は欧米各国での栽培品です。
ベラドンナの薬効成分が明らかにされたのは19世紀中頃でした。1831年ドイツの薬剤師マインがベラドンナコンから結晶を取り出しました。1833年ドイツのガイガーとヘッセはベラドンナコンから新アルカロイドを分離し、アトロピンと名付けました。アトロピンはヒヨスチアミンの(±)体であり、抽出過程でラセミ化します。アトロピンの化学構造は1880年代からラーディングらにより研究され、トロパン骨格を有するアルカロイドであることが明らかにされました。トロパン骨格を有するアルカロイドを含むナス科の近縁植物にはAtropa 属の他、Datura属(ヨウシュチョウセンアサガオ D. tatula など)、Hyoscyamus属(ヒヨス H. niger など)、Mandragora属(マンドレイク M. officinarum など)、Scopolia 属(ハシリドコロ S. japonicaなど)があります。いずれも鎮痛、鎮痙薬として歴史的に使用経験がある植物です。
アトロピンは副交感神経遮断作用があり、平滑筋や気管支の弛緩、散瞳、分泌抑制が見られます。有機リン剤中毒の解毒剤としても使用され、地下鉄サリン事件でも使用されました。
医薬品として使用されるアトロピンの全合成は19世紀初頭には達成されていましたが、その複雑な骨格のため合成工程が長く非効率的なものでした。その後、多くの研究者により合成法が改良されましたが、いずれの方法も経済面で天然物からの抽出には及びませんでした。医薬品目的の抽出原料として、20世紀初頭には日本のハシリドコロが選ばれました。一時期、相当量のハシリドコロ(生薬ロートコン)が欧米に輸出されました。ただしアトロピンは単独で使用するよりもエキスとして使用した方が副作用が少なかったようで、次第にエキスそのものの利用に置き換わっていきました。現在は硫酸アトロピンなどの単独使用がありますが、使用量と経済性を考量した上で依然として原料供給は天然物に依存しています。
日本特産種のハシリドコロはベラドンナと非常に深い関係があります。江戸時代、ドイツ人医師のシーボルトは、長崎地方を中心に様々な科学技術・知識を伝えていました。薬用植物もその一分野で、その中にベラドンナも含まれていました。眼科医の土生玄碩は治療のためにシーボルトから瞳孔散大作用を有するベラドンナの提供を受けました。玄碩はこれを全て使い果たしてしまった後にさらなる分与を要望したところ、シーボルトは「日本に自生するベラドンナ」を紹介しました。その植物が「ハシリドコロ」だったのです。この誤認識がハシリドコロ利用の始まりであったわけですが、果たしてシーボルトが事前にハシリドコロの効果を試験していたのかどうかまでは伝わっていないようです。